院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


『檸檬』 梶井基次郎


 十八年前のある日、私は御茶ノ水駅に降り立ち、聖橋へ向かった。自分の年齢が、梶井基次郎の享年に達したのを記念して、聖橋から一顆の檸檬を放り投げようとしたのである。さだまさしの『檸檬』の歌詞に〈食べかけの檸檬、聖橋から放る〉というのがあって、その曲がヒットしたちょうど三十年前の一九七八年は、私が初めて梶井基次郎の『檸檬』を読んだ年でもあった。これも何かの縁だろうと、ちょっとした思いつき、呑気な諧謔であった。

 私が梶井基次郎を知ったのは、浪人時代のことである。予備校での授業の長文読解問題として、梶井の『闇の絵巻』の一節が使われていたのである。その短編は、療養地の夜道の往来を懐古したものである。当時の私の読後感を思い出すことはもはやできないが、何かに感動した私は、塾からの帰り道、少し大きな本屋に立ち寄って梶井基次郎の短編集『檸檬』を買ったのである。週刊誌を読みふける若者をしりめに、少し誇らしい気持ちでレジに並んだのを記憶している。文学への憧憬と若いが故の気負いは、無邪気で幼稚であるがゆえに純粋で真っ直ぐであった。
 梶井基次郎は明治三十四年大阪で生まれた。第三高等学校入学後、夏目漱石、谷崎潤一郎に耽溺。次第に文学を志すようになる。梶井基次郎の文章には、感情や情緒に流されず、対象を(己の感情を含めて)客観的・分析的に見つめることのできる理性が垣間見える。それこそが、真率にあって諧謔、焦眉にあって泰然とした独特の文体を支えている。十九才の時、梶井は宿痾の悪疾となる肺結核に罹患する。休学は、文学への志向をさらに深めることになったが、同時に頽廃(デカダンス)への傾倒の端緒となる。持続する咳と微熱。肺尖カタルが蝕むのは、若い体力だけではなかったのである。梶井の文章の深層には、暗澹とした澱が沈殿している。それは夭折という理不尽な命運を強く予感させるものである。しかし葡萄酒の澱がそうであるように、その澱は、梶井の文章の純度、滋味を損なうことはない。
 短編集『檸檬』、その中にはまさに珠玉と呼ぶにふさわしい作品が昴のごとくちりばめられている。『冬の日』では、〈冬陽は郵便受けのなかへまで射しこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及(エジプト)のピラミッドのような巨大(コロッサール)な悲しみを浮かべている。〉の一文。微視的な現実が巨視的な空想へと飛躍する。日常の鬱屈した感情が、ある瞬間、突然全身を焦がす絶望へと転化する。作者の不安定な心情、その輪郭が脆弱な冬の陽射しに露わになり、読む度に錐で胸を刺される痛みを感じる。すべての短編に言及したいという衝動を抑えて、あえてもうひとつを挙げるとすれば、やはり短編集の表題名と同名の一編『檸檬』であろう。やや人口に膾炙した感のある『檸檬』ではあるが、極めて私的な我が心のマスターピースでもある。
 〈えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか―酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。〉この冒頭の一文を読んだところで、視線を上げて遠くを見る。このまま読み続けるかどうか逡巡する。しかしその時、すでに不吉な塊は私の心にまで進入し、刹那の抵抗もむなしく、再び頭を垂れて文字を追う。そのえたいの知れない塊から逃れるように、主人公と私は、街に彷徨い出る。あてのない道すがら、暗い路傍にあって、絢爛とした電灯の光で満たされている果物屋にたどり着く。そこで主人公は一顆の檸檬を購入する。〈終始私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる―或いは不審なことが、逆説的な本当であった。〉肺結核に冒された主人公は常に微熱があって、手掌から伝わる檸檬の冷たさが心地よかった。そしてその檸檬を鼻にあて、ふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込むと、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった主人公の身体と顔に、暖かい血のほとばしりが昇って来るのだった。檸檬の単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚、ずっと昔からこればかり探していたのだ。〈つまりはこの重さなんだな〉〈疑いもなくこの重さは総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さである〉ふとした思いつきに満足して有頂天になる。そして主人公は書籍や文房具などの小間物を扱う丸善の前に迷い出た。かつてはお気に入りの店であり、しかし生活が蝕まれてからはむしろ避けていた場所であった。〈今日は一つ入って見てやろう〉主人公はずかずか入って行った。しかし香水の壜にも煙管にも心はのしかかってゆかない。幸福な感情は段々逃げて行き、憂鬱が立て込めてくる。かつて愛した画集を開いては、克明にはぐってゆく気持ちにはなれず、その重さに耐えられずその場に置いてしまう。しかも呪われたことにまた次の一冊を引き出さずにはいられない。手の筋肉に疲労を感じ、憂鬱になる。しかし主人公は、乱雑に積み上げられた画集を前にあることを思いつく。先程の軽やかな昂奮が帰って来る。色鮮やかな画集を崩しては積み上げ、ついに完成した城壁の頂きに、恐る恐る檸檬を据えつけた。〈その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた〉不意に第二のアイデアが起こった。そしてその檸檬をそのままにして主人公は丸善を後にする。〈丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう〉
 読者は梶井にとっての檸檬を五感で感じることができる。だが、理性で捉えようとすると途端にそのレモンイエローの塊は面紗(ヴェイル)に包まれる。我々人間が築き上げてきた総てのものをその内部に易々と吸収し、無駄なものは蒸散し、その核心だけを残して厳密に質量が計算され、今この手の中にある。それはその完成された美しさで他を圧すると同時に、不吉な塊の対極にあって、〈無気力な私の触覚に寧ろ媚びてくるもの〉でもあるのだ。文学であれ絵画であれ音楽であれ、幾世代もの時を経て淘汰され濾過された人智の歴史を果汁とするならば、梶井の檸檬の内部には個人の短い命の意義さえ肯えない脆い果肉が共存している。そしてそれらは軋轢と歪みを生み、抑えきれないエネルギーとなって爆発する。梶井はそのカタストロフを、諧謔を装いながらむしろ客体として眺めようとする。研ぎ澄まされ逃げ場のない魂の孤独に、これ以上耐えられなくて、私は本を閉じる。

 聖橋の中央で私は立ち止まった。これからしようとする悪戯を見透かされた子供のようにどぎまぎしながら、コートの中の檸檬を握った。冷たい感触。その瞬間、口ずさんでいた、さだまさしの『檸檬』の旋律は途切れ、梶井基次郎の『檸檬』が渇いた心に流れ込んで来た。苦悩と絶望に続く頽廃に憧れつつも、安穏とした無為な時を過ごし、医師として患者の生死に関わりながらも、死の恐怖は蚊帳の外にあった。全身全霊を賭して何かに打ち込む事の無かった薄っぺらな青春は、投げ上げるほどの事もない。檸檬をポケットに戻すとため息が出た。私の檸檬は何処にあるのだろうか?いつか私はその檸檬をこの手のひらに握ることが出来るのだろうか?爾来、梶井の魂の叫びに共鳴する心の振動板が錆びつかぬように気遣いながら、私は私自身の檸檬を探している。




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